入学礼拝 校長講話「応答の主体」

第29回入学礼拝より(抜粋)

「応答の主体」

聖書朗読 ルカによる福音書19章1~10節
 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」


 29期生の皆さんの入学を心待ちにしていました。キリスト教愛真高校の設立が呼びかけられたのは1985年のことですから、今年はそれからちょうど30年が過ぎ、今もうすぐ31年になろうとしている時です。

 本校の創立責任者である高橋三郎は、「人は何のために生きるのか」という問いを教育の中心に据えた学校を設立したいと呼びかけました。その呼びかけに多くの賛同者の祈りと具体的な支援があって、この学校の設立が実現しました。                           
 
 教育は人生の目的に添って為されるべきものだと思いますが、なぜか「人は何のために生きるのか」と学校教育の中で問われることは、殆どありません。学校は学ぶところですが、そもそもなぜ学ぶのか。生きるために必要だと言いますが、人はなぜ生きるのでしょうか。世の中に自分の意志で生まれてきた人はいません。ではなぜ自分という命が存在し、なぜ生かされているのか。そもそも自分という存在は生きる価値があるのか。あるとしたら自分は何を為すべきなのか。そういう人が生きる上での根本的な問いを、学校という学びの場で生徒に問うてこなかった。だから「人は何のために生きるのか」という人間の根本に関する問いを教育の中心に据えた学校を設立したいと高橋は呼びかけたのでした。
 
 しかしこの問いは、その解答は何々ですよと説明され、暗記して覚えればすむような問いでないことは明らかです。生涯考え続けなければならない、人としての根本的な問題を抱えています。私たちはその問いを発する書物として、またその問いに対する解答を考えさせてくれる存在として聖書を大切にし、それを真剣に学ぶということを教育の中心にしたいと考えています。
 
 ではこの学校で、何を目指して教育をするのでしょうか。本校の教育目標は、「豊かな知性と確固たる良心を合わせ備えた責任の主体たる独立人を育成することを目標に、少人数・全寮制の環境において、聖書に基づく全人教育を行う」です。
 
 愛真高校の教育の中心に聖書があることは、先ほどお話しした通りですが、聖書に基づく全人教育とは何でしょうか。それは聖書を学問的に机の上だけで学ぶのではなく、聖書の問いかけに耳を澄ませながら生活を通して、人との交わりを通して、また労働を通し、自然との触れあいを通して、すなわちあらゆる経験・体験を通して学ぼうということです。ですから愛真高校はこうした自然の中に建設され、少人数、全寮制という人と人とが深い関わりを持てる環境を維持し、学習と同時に労働することを大切にしているのです。

 教育目標にある責任の主体たる独立人とは、自分で判断して行動し、その行動に責任を持つことのできる人と言い換えてもいいでしょう。良い判断をするには、判断する材料が必要です。ここでの学びの一つ一つはその判断の基礎となるものです。いや基礎となるようにしっかりと学んでください。「本校に学ぶ者は、聖書を真剣に学び、真理を探究しようとする態度をもつ」を校訓の一番目におく愛真という名前の学校に入学してきたわけですから、学ぶということに真剣であってほしい。基礎となる知識が大切であることはもちろんですが、それを自分がどう生かし、どう判断し行動するのかという知性を豊かにすることを目標にしてほしい。

 また学問的知識だけを積み上げても良い判断は下せません。良い判断を下し、その判断に従って行動するには、その人がどういう良心を心に育てるのか。そしてその良心に従って行動できる勇気や意志の強さが大切になります。それを育てるための学びがこれから始まるのです。

 ところで責任の主体という言葉の中の「責任」ということはどういうことでしょうか。日本語では分かりにくいのですが、英語やフランス語などの責任という言葉の元をたどれば、ラテン語で応答すること、応答できる状態を意味しています。ですから責任の主体とは、応答の主体と考えてもよいと思います。

 応答の主体とは、自分という存在に対する呼びかけに対して応答する、応答できる私自身であり、それが責任の主体ということです。聖書の一番最初に、神様が天地を創造され人間を創造された物語があります。その話に続いて、最初の人間とされるアダムとエバが神様から食べてはならないとされた木の実を食べてしまい、それに対する神様からの呼びかけに応答せず、女のせいです、蛇のせいですと責任から逃れようとしたことが聖書に書かれています。聖書を真剣に学ぶことと、責任の主体になるということは密接な関係があります。そのことはここでの生活を通して、きっと考えさせられることとなるでしょう。今は、聖書を真剣に学ぶとは、聖書を学ぶことによって与えられる自分への呼びかけに耳を澄ます、聖書が問いかけてくる問いを受けとめ、それにどう応答するかを考えるということだと心に留めておいてください。

 今日は聖書の中で、イエス様から呼びかけられ、それに応答したザアカイの物語を先ほど読んでもらいました。ザアカイという人が住んでいたエリコという町を、イエス様が通られた時の話です。

 ザアカイは徴税人の頭でした。イエス様が生まれたイスラエルは、当時、国を失ってローマの支配下に入っており、徴税人はそのローマに支払う税金を集める仕事をしていました。徴税人は支配国であるローマへの税金を集める卑しい仕事をしている人として、また余分に税を取って私腹を肥やしていた人もいたため、金持ちではあっても人々からは軽蔑されていました。また宗教的にも罪深く汚れた存在として、人々と接触することさえも禁じられていました。ザアカイはその徴税人の頭というのですから、どれだけ人々から忌み嫌われていたことでしょうか。せいぜいお金を集めることにしか、自分の存在価値を認めることができなかったのではないでしょうか。

 さてそのザアカイは、当時人々のうわさに上っていたであろうイエス様がどんな人かと一目見ようとしました。背が低く、また人々との接触を禁じられていたので、いちじく桑の木に登ったのです。イエス様はその場所に来ると上を見上げて、なんと「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。ザアカイは、きっと今何が起こっているか分からないほど驚いたことでしょうが、「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」とあります。

 当然周囲の人々は、イエス様が周囲の人と接触することさえ禁じられていたザアカイの家に宿をとったことに対して、何ということをする男かと、いぶかしい思いでつぶやきますが、ザアカイは立ち上がってイエス様に言いました。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
お金を集めることだけが自分の存在価値だと思っていたザアカイの生き方、貧しい人のことなど眼中になかったザアカイの生き方が180度変えられた様子が、短い話の中に生き生きと描かれています。

 責任の主体、応答の主体となるべく今日からの学びが始まりますと言われると、恐れ多くて体がコチコチになってしまいそうな気がします。そしてそのように生きることは辛く厳しい人生を歩むことのように思いますが、イエス様の言葉に応答したザアカイの言葉は、人間性を回復した心からの喜びに溢れています。

 愛真での生活や聖書の学びを通して自分に呼びかけられる言葉、それに真っ直ぐに応答する生き方とは、何かに縛られ何かに怯えて生きる生き方ではなく、心からの喜びに押し出されて生きる生き方だと、ザアカイの物語は語っているのではないでしょうか。

 29期生一人ひとりは、どこに使命があるのでしょうか。その使命を担う主体として、ここに招かれたのだと信じます。けれど気負わなくていい。ザアカイはイエス様を一目見ようと木に登りました。そのことによってイエス様から声をかけられ、その声に素直に従って行った。ただそれだけです。自分にとって木に上るとはいかなる行動をすることか、呼びかけに応答するとはどのように歩むことか、考え続けていれば、きっと時に応じて示されるでしょう。そこに期待して今日からの生活を送ってください。目の前のことから逃げないで、それに誠実に取り組む。そのことを大切に過ごしてほしいと願います。

(全文は機関誌『愛真』に掲載いたします)

2016年4月11日
校長 栗栖  達郎